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乘雲寺の歴史

 奈良時代の中期、天平勝宝元年(749年)に、詳しい場所は定かではないが、七堂伽藍が揃う大規模な寺院、千眼寺(せんがんじ)が開基された。その後、千眼時は廃墟状態となったが、慈覚大師(じかくだいし)の手により再建された。しかし、人里離れた千眼寺は数百年の星霜を経ると哀しくもまた荒廃状態となった。
   慶長18年(1613年)、尾張の住人閑誉上人(かんよしょうにん)が当地に留錫してこれを悲しみ、千眼寺が再三さびれ荒廃するのは、人里離れているが故にと考え、人の住む部落へと移され、現乗雲寺の場所に、千眼寺のご本尊阿弥陀如来を持ってこられ、再建された。後に、浄土宗に転じ、山号は佛光山として、院号は法寿院に、寺号は乗雲寺と改められて現在に至る。
  この周辺は郡字西田と称する地名で、地元の西田と云う懇篤な方が土地を献上したと伝えられる。
鐘楼は昭和47年9月10日に新築再建。梵鐘は、先般の太平洋戦争で供出された。
 その為、鐘楼は梵鐘のない状態で四分の一世紀放置されていた。鐘楼は梵鐘を吊るしてバランスを保つ構造であり、古い鐘楼は、梵鐘の重みをなくしバランスを崩し使用できない状態であるとの判断により、新築再建された。
 明治7年3月(1878年)乗雲寺の本堂を校舎とし、寺子屋的な視点で夜間授業が始められた。この実態を鑑み、同年10月9日、第8大区第2小区第2番小学校が認可された。明治11年7月(1878年)、郡村字細道913番地に新築移転され、島下郡の郡小学校と命名。
 明治20年(1887年)、郡尋常小学校と改名。さらに、明治26年(1893年)、春日尋常小学校と再改称。その後、春日尋常小学校を分校し郡尋常小学校(現在の郡小学校)が設立された。これらの経緯から乗雲寺は郡小学校発祥の地と茨木市が認定。郡小学校開校周年記念事業として『郡小学校発祥の地』の石碑が当寺院境内に建てられた。
乗雲寺境内には多くのサツキが寺樹木として植樹され、一時は『サツキ寺』と称されていた。
 現在も多くのサツキが繁茂し、5~6月頃は華やかな彩りで飾られる。
                            (文:茨木市観光協会 加藤 秀治氏)

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